猿とその他によるブログ。 将来見返してニヤニヤする用です。つまり日記

2018/09/12

韓国が日本を見下す理由 第1章

韓国がなぜ反日活動を執拗に行うのかを説明し、その問題を根本的に解決するためには
歴史を直視することが必要です。そこで日韓の近代史を振り返ってみましょう。




西暦1392年、それまで朝鮮半島を支配していた高麗王朝の王位を李成桂という男が簒奪しました。彼はすぐさま明に使者を送り皇帝に国名を選んでもらいました。それが二十世紀初頭まで続いた朝鮮という国です。みなさんご存知の通り韓国はつい最近できた国なのです。

19世紀中頃になると、当時、世界を覆い尽くさんばかりの欧米列強の魔の手が、とうとう北東アジアにも伸びてきました。まず、清国が阿片戦争で血祭りにあげられ、その後、西欧諸国は日本や朝鮮に対しても、首都の近くまで船を進めて開国を迫るようになってきました。日本におけるその典型的な事件がアメリカのペリー率いる黒船来航でした。

当初、日本では、外国人を国内に入れるなという意見が大勢を占めていましたが、欧米の科学力に裏打ちされた軍事力をしるにつれ「これはヤヴァイ」と思う人間が増え始め、更に清国の現状を知り「日本も欧米の植民地にされるかもしれない」という猛烈な危機感を抱いた人たちが、欧米に対抗すべく中央政権体制の国家を樹立したのが明治維新です。

そして西欧列強国に対抗するには、彼らから学ぶしかないと考えた日本政府の要人たちは、なりふりかまわず西洋の社会システムを模倣しました。また、彼らの軍事的脅威に対抗するために隣国の朝鮮と同盟を結ぼうと考え、国の統治体系が変わったこともあり、改めて国交を結ぶべく使者を送ったのが西暦1868年です。

当時、欧米の軍事力は圧倒的に日本を凌駕していたのですから日本の立場としては少しでも仲間が多い方が良いと思うのは当然のことであり、また、朝鮮が日本を狙う侵略国に占領されてしまえば、その地理的位置から自国の防衛が非常に困難になるため、日本としては、何としても朝鮮と同盟関係を結ばなければならなかったのです。

ところが朝鮮は、長らく華夷秩序体制(中華皇帝を中心とした国際関係。周辺諸国を夷狄の王として中国より格下に位置づけた冊封体制)の中にいたため自分達より中華から遠い日本を蔑視していただけでなく、西洋人を夷狄として忌み嫌っていました。その外国と条約を結んだ日本から中華皇帝以外に使用を許されない「皇」の字が入った親書が来たものですから、親書の受け取り自体を拒否したのです。

本来、日本は中華冊封体制の外に位置し、独自の天皇を頂く国ですから「皇」
の字を使用したとしても何の問題もないのですが、朝鮮側の一方的な思い込みにより国交樹立のための交渉のテーブルにつくことすらかないませんでした。(高まる中国や北朝鮮の脅威に日韓が連携して対抗しなければならないというのに、日本にとっては言いがかりの理由で会談すら拒否する、今の大統領を見れば、こういうところは何も変わっていないことがよく分かるでしょう)

そこで、日本国内に巻き起こったのが、朝鮮に出兵して武力して従わせようとする「征韓論」です。しかし、当時、参議であった西郷隆盛は自分が全権大使として朝鮮を説得し、平和的に同盟を結ぶと言い張り、西郷大使の派遣は実現まであと一歩の段階まで迫ったのですが、日本国内の政変により日の目を見ませんでした。

その後、日朝両国は互いに国内の政変などの紆余曲折を経た後、江華島事件を契機として「日朝修好条規」を締結しました。この条約は、この時代における他の助役と同様、ご多分に漏れず不平等条約でしたが、一つ大きな違いがありました。

それは第一条において「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める」とわざわざ朝鮮が独立国家であると謳っていることです。しかも日本は、この日朝修好条規締結の5年前、清との間に両国が対等であることを確認した「日清修好条規」条約を結んでいました。つまり日本=清、日本=朝鮮という対等関係になれば長年主従関係にあった清国と朝鮮も清=朝鮮という対等関係になるという理屈です。

しかし、ことはそう簡単に行くはずもなく朝鮮の独立には、それからも歳月を要しました。とはいえ、この条約をきっかけに、建国から約500年の時を経た朝鮮が、ようやく独立への第一歩を踏み出したことには間違いありません。










Share:

0 コメント:

コメントを投稿